馬について熱く語る
三木基司
日本障害馬術の歴史を振り返ると実に面白いです。全日本の大障害Aの優勝者を見ていくと1972年 佐々信三はまゆう。佐々さんは現在、関西学院大学馬術部アドバイザーで三木翔一朗副所長も学生時代に指導を受けた文字通り伝説の神ライダーです。
1974年から1979年の6年間は、ほぼ東の竹田恒和、西の杉谷昌保が交替でタイトルを取っています。相撲で言えば大鵬と柏戸、両横綱の戦いに似ています。
1974年、杉谷さんメリーメリー。1975年、竹田さんフィンク。1976年、杉谷さんメリーメリー。1977年、杉谷さんマンハッタン。1978年、竹田さんフィンク。1979年、杉谷さんメリーメリー。1980年、小畑隆一さんサンドクリケット。
この時、竹田さんは慶應義塾大学馬術部の監督・コーチをしながら自分の主戦馬は筑波RPに預けていました。なので慶應馬術部だった則夫理事長からすると、まさにお師匠様でした。かたや杉谷さんは父親の杉谷留吉さんが仕切っていましたが「若先生」と呼ばれ杉谷乗馬クラブを運営していました。自分でトップクラブを経営している強みで良馬を多数保有しており、若手育成にも力を入れ1976年モントリオールオリンピックでは21歳の小畑さんも日本代表として出場しました。この時は、義父の川口宏一さんと相談しながら小畑さんの配馬を考え、個人戦では止まるリスクのあるマニートークスから絶対止まらない悍馬のマンハッタンを選択し見事完走しています。
私は1976年秋から馬を習い始め翌年1977年6月、杉谷RCでの西日本馬術大会で初めてオリンピック帰りの杉谷さん小畑さんの騎乗姿を目撃し、あまりの上手さに乗馬にのめり込むきっかけになりました。特に小畑さんの軽速歩のタイミングの取り方に憧れて、それ以降まねしていました。具体的に言うと軽速歩のリズムを取る毎に首の力が抜け頭が少しだけ揺れるのです。それと杉谷さんも小畑さんも鐙の長さはそんなに短くなかった。当時の日本のライダーは、みんな短く膝が曲がっていました。でも2人の鐙の踏み方は伸びやかで自由でリラックスしていました。
この年1977年は11月に全日本が杉谷RCで開催されたので竹田さんは関東からフィンク、フローリアン等を連れてきていました。その時、愛弟子だった則夫理事長が明石乗馬にも来て欲しいとお願いすると忙しい中、来てくれて私の主戦馬「陽統号」にも乗ってくれました。竹田さんが乗ると陽統の頭頸がかっこよく変貌し、素晴らしい馬場運動でした。障害を飛びだすと、その飛びが気に入らないと飛んでる空中で素早く鞭をお尻に4回入れるものですから、陽統も目の色を変えて飛んでいました。オリンピック選手の神業に、ひたすら感動していました。
大阪に戻って全日本の大障害では竹田さんのサポートに弟子の則夫さんがついていました。しかし杉谷さんは自分のクラブ馬場というホームタウンの有利さとは別にメリーメりー、マンハッタンというオリンピックホースを2頭乗るのでフィンク1頭の竹田さんは不利でした。結果、マンハッタンがタイトルを取りました。
翌年1978年、全日本は馬事公苑で開催することになり、わたしも初めて全日本の出場資格を中障害で取得し出場しましたが、実力不足、経験不足で結果はふるいませんでした。この時は杉谷留吉さん(大先生)が体調を崩されていたので杉谷昌保さんは来ていませんでしたが、小畑さんや杉谷RCの馬達が20頭近く来ていました。ところが留吉さんが亡くなられるや、すぐに選手も馬も大阪に戻ったので、大障害はAもBも竹田さんの一人勝ちでした。この時は、則夫さんは慶應に居たので、ずっと私の指導をしてくれました。
その次の次の年1980年には満を持して次世代の小畑隆一さんが大障害Aをサンドクリケットで優勝、大障害Bではジェスで優勝とタイトルを取られました。この年はモスクワオリンピックで竹田さん、杉谷さん、小畑さんが日本代表に選ばれていたのですが、ご存知のように日本が西側陣営としてボイコットしたため出場はかないませんでした。
私は馬を始めてから、ずっと小畑さんの背中を追いかけていたので、一番信奉する小畑さんに翔一朗さんが3年半もお世話になった事が何より有難かった事です。
伝説の神ライダー4人…佐々さん、杉谷さん、竹田さん、小畑さんには、いつまでも元気でいて欲しいと願っています。
溝口豊
馬と関わるようになって約30年、それまではテレビで見たり、観光地に居るぐらいにしか思っていませんでしたが、年を重ねるごとに色んな事を学び経験してきました。
何かきっかけがなければ、これほど長く馬に関わる事も無かったと思います。
まだまだこれからも馬の事を学び、楽しんで行きたいと思います。
本宮範子
馬について熱く語る?
目の前に馬がいないとあまり浮かんでこないです。
逆に人馬を見るとオートで口が動き出します。
ごく稀にレッスン中、スイッチが入ると語りだしますが、どちらかというと熱くなりすぎないように、サーモスタットが機能するようにもなっているので、語ることが減っていると思います(笑)
岩島清志
馬について熱く語ることはできても書くことはできないんですよね。
文才がありませんので、書くのは苦手です。
誰かが何か聞いてくれればずっと喋っていられます。笑
菊澤大助
馬について熱く語れ!
とても面白いお題です。
出題者は宮内さん。
いろいろ熱く馬に対して思い入れのあるインストラクターです。
多分原稿用紙3枚はくだらないでしょう!
かといって、彼は非常に常識人でもあるので10枚は超えないと予想しています。
予想では最も文字数の多い回答は
1, 基司所長
2, 宮内さん
3, なんだかんだで小出さん
の順ではないかと予想しています。
軸はやはり基司所長です。
出題者の宮内さんには出題者としての意地もあると思うのですが、もしも3位以下だと正直がっかりです。
溝口さんは時々ホームランを打ちますが、年末年始なのでおそらく筆が進まないと予想。
本宮さん、中尾さん、清水さんや村岡さん達の下に収まると予想します。
難しいのは翔一朗さん。
私はさらっとあっさり短いとみているのですが、逆に超大作が発表される可能性もゼロではありません。
大穴狙いで行くなら翔一朗さんのマークは外せないでしょうね。
えっ?岩島さんですか?
岩島さんは文章の長さや中身を先に知れて調整できる立場にいるのでこのレースではペースメーカー的存在となります。
私ですか?
熱く語れ、は長く語れとは違いますので一言。
馬は私の人生です。
以上
三木翔一朗
自分本位で「面倒だから」、「寒いから」、「暑いから」、「時間がないから」、「これは嫌いだから」、「私のやり方が絶対に正しい!」でやっている人は馬との信頼は低いように感じています。
信頼関係があるかどうかは馬に対するプレッシャーの頻度が減っていくこと。その人がいると本能ではなく理性で行動しようとすること。
などがあると思っています。
長い期間に接しているにも関わらず、毎回同じようなパターンで馬を怒っているのは間違った接し方なので「自分のやり方」という自分本位ではなく馬がどのように反応しているのか?馬にとってはどのように見えている感じているのか?と馬本位の視点で考えてあげる。
馬は我慢強い生き物なので本能的に怖いことがあっても「この人がいたら大丈夫。」と理性が働いてくれると逃げるのを我慢したり向かっていってくれます。
25年以上は馬と接していますが今になって分かることも分からなくなることも多々あります。
上記も私が思っているだけなので、正解は常に馬が返してくれる反応ですので馬とのコミュニケーションを大事にしてあげて下さい。
小出謙介
馬術を語り出すと止まらなくなります(笑)職場だけでなく、家にいる時でも暇さえあればインスタグラムやYouTubeでも障害や馬場馬術の動画を見ています。とにかく、この素晴らしいスポーツに関われて、職業に出来たので一生をかけてもっともっと馬の事を理解したいし、騎乗技術も向上するように勉強します!生涯現役!!!
中尾 麻美
どの会有馬もみんな健気に毎日頑張ってくれています。
本気を出せば人間なんて振り落として走っていけるだけのパワーを持っているはずですが、そうせずに我慢してくれているのです。そんな馬たちがいてくれているおかげで我々の仕事は成り立っています。本当にありがたいことです。
常に感謝と尊敬の念を忘れずに、寒いーとか仕事行きたくないーとか思っても、馬たちを見習って文句を言わず耐えられる人間になりたいと思います!
清水綾菜
・・・
宮内隆佑
自分が初めて馬に興味を持ったのは高校生の時に友達が競馬が好きで一緒にその子の家で見ていたことが最初のキッカケでした。
そこから馬の専門学校に行き競馬関係の仕事に就きたいと学校生活を送り、そして今に至ります。
もし馬と関わっていなければ今の自分は無く、いろいろな出会いも無く堕落した人生を送っていた事でしょう。この歳まで生きていられたかどうかも分かりません。
人生において馬には大きな恩があります。私にとって馬とはそういう動物です。
村岡七海
馬はとーっても可愛い動物です。目が可愛くて、まつげが長くて、背が高くて、抱き枕にして寝たいぐらい。それと同時にとても賢い動物です。でもちょっぴり臆病な生き物。
乗っているときは、褒めてのばしてあげて、できていないところは教えてあげて、そんな成長がみられる動物たちだと思います。私的には可愛い子供たちみたいな存在です。でも対等に自分のできていないところも教えてくれる、そんな可愛いくて日々の癒しの存在です。この子たちのために自分の体調を整えつつ、日々のお世話を頑張らなきゃなと思っています。